【鎌倉万歩】天が望んだ男。(「鎌倉殿の13人」第25話)

鎌倉農泊協議会の間宮です。

今回のタイトルは「天が望んだ男」。
天は誰を望んだのでしょうか。


朝廷に食い込もうとする頼朝の野望は、大姫の死で頓挫した。
全てを思いのままにしてきた彼は、今、不安の中にいる。

(ドラマのプロローグより)

「あああああああ!」

頼朝は自分の絶叫で目が覚めた。

読経の声が聞こえ、声のする方へ行くと政子たちが頼朝の亡骸を囲んで泣いていた。

「毎晩、同じ夢をみる。まだ死にとうない。どうすれば良いか」

異母弟の全成にすがるように尋ねた。

「陰陽五行では、相性の良い色と、悪い色があります」
「平家の赤。一切の赤を避けるように」
「他には、何がある?」
「久しぶりの者との対面を避ける。恨みを持つものの縁者を避ける。
昔を振り返ることは避ける。仏事神事は欠かさぬこと」

全成はよどみなく答えている。

「他には」
「赤子を抱くと命を吸い取られる」

全成は途中から、苦し紛れで思いつくまま続けた。

ある日、相模川で供養があった。

北条 時政の四女で稲毛 重成(いなげ しげなり)の妻・あきが病死し、
重成があきの追善の橋をかけた。

御所に出仕した義時は、頼朝のそばを歩き始めた。

「少し、離れて歩いてくれ」

義時は伊東 祐親の孫。ゲン担ぎの言葉だ。

(*)恨みを持つものの縁者を避ける。

戸惑っている義時に頼朝は、
「北条は信じて良いのか」
「もちろんです」
「範頼をたき付けたのは比企という噂を聞いた」

頼朝の胸には、次から次へと疑惑が浮かんでくる。

頼朝が居室に入ると、真っ赤な鬼灯が飾ってあった。

「・・・これはなんだ」

伊豆からたくさん送ってきた鬼灯(ほおずき)だ。御台所が飾るよう命じていた。

「すぐに片づけろ!赤いものはいかん」

頼朝が叫んだ時、仏壇の鉦(かね)の音がした。
義時たちには聞こえずに、頼朝の耳だけに響いた。

頼家と比企の娘せつの間に長男の一幡(いちまん)が生まれた。
能員は頼朝の跡は頼家が継ぎ、その次は一幡だと、周囲に知らしめたい。

頼家に一幡を抱いてほしいと押し付けられた頼朝は、
一旦は躊躇するが渋々と抱く事になった。

義時が赤いほうずきを片付けているところに時政が現れた。

「比企のやつ、うまくやりやがった」
「実はそうでもありません。鎌倉殿は比企を警戒しております」
「その噂は、わしが流した」

と時政は白状した。

「それもあって、鎌倉殿は若君の正式な妻としたくないのです」
義時は呆れて言った。

そこへ頼家がやってきて、義時につつじという女の存在を打ち明けた。

「その方は、どちらの方なのですか」

この話には三浦が関わっていて、義村が二人の中を取り持ったと。

「つつじの母上は鎌倉殿の叔父君・鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)様の娘だ」
「源氏の御一門か!」

これは良しと、義時は頼朝と頼家の仲介役になった。

「若君は、そのかたをどうしても妻に迎えたいそうです」
「為朝氏の孫というのは本当か!」
「頼家!おなご好きは、我が嫡男の証じゃ」

頼朝は渡りに舟の話で、つつじを正妻に、比企の娘を即女とする事にした。

側近の盛長は比企との軋轢も気にしたが、源氏の血を引くつつじが正妻に決まった。

相模川の橋のたもとで追善供養の準備が進んでいる。

まもなく北条家の義時、政子、時政たちが家族揃って到着した。
同じ頃、頼朝は梶原 景時に留守を託し、御所を出ようとしていた。

「今日は験を担いで方違え(かたたがえ)をして行こう」

景時に和田 義盛の別邸を迂回路にするのが良いと勧めた。

「義盛は、木曽 義仲の愛妾であった巴御前を側女として、密かに住まわせています」
「巴か。一度会ってみたかった」

頼朝の突如の来訪を義盛は恐縮して迎えた。

巴は義盛の頼みであろうと、義仲を討つように命じた頼朝には会いたくない。
不承不承、頼朝の前に出た。

「義仲殿もわしも、平家を討って、この世を正したいという思いは同じであった。すまぬ」

頼朝は丁寧に謝った。途端、全成の言葉を思い出した。

「無性に謝りたくなった。いかん、振り返ってはならんのだ」

頼朝は、そそくさと和田館を後にした。

相模川の橋の供養は頼朝も加わり無事に終わった。

その後、北条家の家族は総出でもちを丸め始めた。

「伊豆にいた頃は、仏事で一門が集まると、こうやって皆で丸餅を作ったものです」

義時が話しながら、丸餅づくりに加わった。

りくは手が汚れるのを嫌がり廊下に出た。

頼朝は風に吹かれて橋を眺めている。

「鎌倉殿は、いずれ、京に戻られるのですか」
と京育ちのりくは、同じく京育ちの頼朝に問いかけた。

「朝廷はいつまで経っても、我らを番犬扱い。
顔色を伺って向こうで暮らすより、この鎌倉を京に負けない都にすることに決めた」

(臆病な方!)と、りくは、呆れてつぶやいた。

「都人(みやこびと)は脅しだけでは動かぬものじゃ」

頼朝は気にせず応えた。

「・・・ところで、時政はわしをどう思っている?」

その時、時政が出来上がったばかりの丸餅を運んできた。

男同士が酒を酌み交わし、りくはその場を離れた。

「うっ!」

頼朝が餅を口に入れた途端、喉に詰まらせた。

「いかん。誰か来てくれ!」

頼朝はだんだん意識を失っていく。

義時が駆けつけて、気合を込めて背中を叩いた。

口から丸餅が飛び出した。

「時政がいなかったらどうなっておったか。持つべきは北条だな」

「二人に頼みがある。頼家のことじゃ。武家の棟梁として源氏が帝をお守りする。
その足掛かりを頼家がつくる。小四郎、お前は常に頼家のそばにいて支えてやってくれ」

頼朝は大御所になるという。

「大御所になって、どうされるつもりですか」
「人の命は定められたもの。あらがってどうする。受け入れて好きに生きる。
神仏にすがって怯えて生きるのは時間の無駄じゃ」
「鎌倉殿は、昔から私だけに大事なことを打ち明けてくれます」

義時は誇らしげに思った。

このあと北条家は酒宴を催す予定で、頼朝は先に御所へ帰る事になった。
頼朝は馬上の人となり安達 盛長が手綱を引いて歩を進めていく。

突然、頼朝は右手に痺れを感じて、手にした手綱を落とした。

「どうされました」

盛長が心配そうに声をかけた。

頼朝は意識が遠のき、どっと馬から落ちた。

「鎌倉殿!」

相模川の辺りでは北条家の酒宴が続いている。

(つづく)


【旧相模川橋脚跡】

国の史跡、天然記念物。

関東大震災によって、水田に橋杭が出現した全国でも稀な遺跡です。

源 頼朝の重臣・稲毛 重成が、1198年に亡き妻 あき(時政の四女)の
供養のために橋を架けました。

12月27日、落成供養に参列した頼朝は、鎌倉への帰途で義経らの亡霊に会い、
落馬し意識を喪失、鎌倉へ護送されました。

その後も昏睡状態が続き、一時回復しましたが
1月13日、原因は定かではありませんが亡くなりました。享年53歳。

名称旧相模川橋脚跡
所在地神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目

【源 頼朝 落馬の地】

相模川の橋供養に参列し、鎌倉への帰途、八的ヶ原という地で落馬しました。

八的ヶ原とは、現在の辻堂の地を指しています。

JR辻堂駅から徒歩で西南5分の場所に、その表示板があります。

名称源 頼朝 落馬地(標柱)
所在地神奈川県藤沢市辻堂2-17-1

【鶴嶺八幡宮】

頼朝の祖先・義家が前九年の役、後三年の役に向かう際、
懐嶋の八幡宮に戦勝祈願をし、敵を制圧しました。

義家は感謝の意を示すため、矢畑の本社から新たに、ここ浜之郷に分霊し、鶴嶺八幡宮を創建しました。
後に頼朝が社殿を修復し再興しています。

名称鶴嶺八幡宮
所在地神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462

【御霊神社】

茅ヶ崎を本拠地にした懐嶋 景能が、
祖先の鎌倉権五郎景正の霊を祀ったのが始まりと言われています。

相模川の橋供養から帰途に着いた頼朝の前に亡霊として義経が現れました。
その魂を慰めるため、義経を景正とともに祀ったとされています。

名称御霊神社
所在地神奈川県茅ヶ崎市南湖2-9-10

【弁慶塚】

源 頼朝は稲毛 重成がなき妻 あきの冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列し、
その帰途に鶴嶺八幡宮のあたりで、弟 源 義経らの亡霊が現れ、頼朝は意識が薄れてどっと馬から落ちました。
それが原因かどうかは不明ですが、翌年1月に亡くなったと伝えられています。

鶴嶺八幡宮の鳥居近く、松の並木道の里人により義経一族の慰霊のために作ったという「弁慶塚」があります。

ゆっくり探さないと分からなほど静かに建立されていました。

名称弁慶塚
所在地神奈川県茅ヶ崎市浜之郷840付近

また次回もお楽しみに!