【鎌倉万歩】果たせぬ凱旋。(「鎌倉殿の13人」第19話)

鎌倉農泊協議会の間宮です。

今回の「鎌倉殿の13人」のタイトルは「果たせぬ凱旋」。
誰の凱旋なのでしょうか?


互いを認めつつ信じられない兄弟がいる。

政治の頼朝、戦の義経。

二人の天才が手を取り合うことを後白河法皇は許さない。

(ドラマのプロローグより)

義時は、義経に鎌倉へ戻って来て欲しい。

大江 広元(おおえ の ひろもと)と額を寄せ合ううちに、広元が妙案を見つけた。

「法皇様にお願いして、九郎殿を受領にしていただきます」

受領(ずりょう)とは、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者の呼称。

ウィキペディア(Wikipedia)

頼朝としても、義経が詫びれば会って奮戦を労いたい。

そこで頼朝は義経を伊予の受領に推挙した。

受領と検非違使は兼任出来ないので、義経は鎌倉へ戻ることができる。

後白河法皇は伊予守に任命し、

「検非違使はそのままで良い」

未曾有の任命になった。

義経は法皇に逆らうことはできない。

「義経が自分より法皇が大事なのか」

と、頼朝は、また腹を立てた。

阿野 全成(あの ぜんじょう)は義経を鎌倉へ招く大義名分を考えた。

「十月に父・義朝の菩提を弔うための供養を行うことが決まっています」

義時は妙案と膝を打った。

文覚が義朝の髑髏を頼朝に届けた。

義時はすぐに京へ出立し、義経と膝を交えた。

「むろん、父上の供養だ。出たくないわけはない。供養の後は」
「もちろん、そのまま鎌倉に残り、鎌倉殿にお仕えを」

源 行家(みなもと の ゆきいえ)は、供養は義経を拘束するための頼朝の罠だと主張して
義経を止めようとした。

義経の妻・里は白拍子の静に嫉妬して、行家と手を組み
荒手の者に義経と静がいる部屋を襲わせた。

義経が追手を叩き出した後、行家が庭から現れて心配げに義経に言った。

「間違いない。鎌倉が送って来た刺客だ」

(*)ここまで書いて、行家がどうしようのもない奴と・・・。

後日、法皇は義経と行家の要請に従い頼朝追討の宣旨を出した。

(*)法皇も、どうしようもない・・・。

「こうなれば、全軍で京へ攻め上がる」

頼朝は決断し、義時は断腸の思いにかられた。

御家人たちは義経の強さを知っているので、これには二の足を踏んだ。

三浦 義村(みうら よしむら)が御家人を鼓舞し、
和田 義盛(わだ よしもり)が従い次々に名乗りを上げた。

頼朝は軍勢を従い出陣した。

義経はなかなか兵が集まらず、挙兵をたきつけた行家はそうそうと義経を見限って逃げた。

(*)やっぱり行家は、嫌なやつだ。もう出てこなくて良い。

「頼朝追討の宣旨は取り消しじゃ」

法皇は、改めて義経追討の宣旨を出した。

頼朝は進軍をやめて鎌倉へ引き返した。

頼朝は時政を京都守護に任じて、義時とともに軍事を率いて上洛した。

義時は法皇に向かって、舌鋒鋭く詰め寄った。

「されど我が鎌倉殿は、疑っております。法皇様は日本一の大天狗。お言葉を信じて良いものか」

義経を捉えるためと称して畿内はじめ西国諸国を頼朝が統治することを認めさせた。

その夜、義時と時政が宿舎にいる時、いきなり義経が現れた。
法皇を信じたばかりに頼朝との関係はもはや修復し難いと。

生きる張り合いを無くした義時が、夜の暗がりに去っていく義経をただ見送った。

「九郎殿は、真っ直ぐすぎたのです」

(つづく)


【若宮八幡宮】

JR「京都」駅を下車して徒歩15分ほど。

頼朝は建久元年(1190年)と建久6年(1195年)に上洛した際、
石清水八幡宮と若宮八幡宮の2社しか社参を行わなかった。

出典:Wikipedia
出典:Wikipedia

以後鎌倉時代を通して将軍家代々の社参が恒例とされた。

以来、武家尊崇の大社として地方からも篤い崇敬を受けた。

名称若宮八幡宮
所在地京都府京都市東山区五条橋東5-480

【吉野山】

近鉄「吉野」駅を下車してすぐ。

源 義経(みなもと の よしつね)が兄・頼朝(よりとも)に追われ、吉野山に逃亡したのは、
吉野金峯山の僧徒の勢力を頼ったものですが、金峯山僧徒のうちに源氏一族の者がいたためかもしれません。

また、義経は幼児期に、母・常盤御前(ときわごぜん)に縁のある、吉野郡と宇陀郡の境にひそんでいたといいます。
その付近には、大和源氏一族の地盤があったことも注目されます。

名称吉野山
所在地奈良県吉野郡吉野町

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