【鎌倉万歩】名刀の主。(「鎌倉殿の13人」第28話)

鎌倉農泊協議会の間宮です。

今回のタイトルは「名刀の主」。

鎌倉殿の13人はこれからどうなっていくのでしょうか。


若き鎌倉殿を補佐する13人の御家人たち。

父・頼朝を超えようともがく頼家は、不信感を募らせていく。

(ドラマのプロローグより)

正治元年(1199年)。13人の宿老の評議が始動した。

ところが宿老同士で、それぞれの当事者の味方の便宜を図ろうといがみ合う始末だ。

頼家は宿老たちの評議が必要なのかと疑念を抱いている。

父の頼朝を越えたいという気持ちが空回りして、御家人たちの不信感は募るばかりだ。

思い通りに動く若い六人衆に、鎌倉の風紀が乱れないように指揮を執っている。

頼朝の死からわずか半年、政子の次女の三幡(さんまん)が闘病の末、帰らぬ人になった。

「母上、ご安心ください。この鎌倉を揺るぎないものに致します」

三幡の乳母父の中原 親能(なかはら の ちかよし)は、この期に出家し鎌倉を離れた。

宿老の文官が一人減った。

実衣(みい)は全成との跡目について、考えが合わずに琵琶を習い始めた。

指南役は御家人で琵琶の名手・結城 朝光(ゆうき ともみつ)だ。

ある日、実衣に対して打ち明けた。

御家人の仁田 忠常(にった ただつね)と、宿老館に耳を貸さない頼家に対して批判的なことを口にしたと。

「頼朝さまには、もう少し長生きをして欲しかった」

このことを善児が聞いて、景時に報告した。

「忠臣は二君に仕えず」

翌日、景時は朝光に対して頼家を誹謗した罪により謹慎を申し付けた。

この頃、頼家は宿老の一人、安達 盛長の息子・景盛の妻・ゆうに想いを寄せていた。

「人の道に反しております!」
若き六人衆の北条 頼時が勇気を持って意見した。

頼家は聞き入れない。

景時はこの問題を重視し迅速に動いた。

頼家、盛長、影盛を一堂に集めて話し合いの場を持った。

「ゆうをわしにくれ」
頼家は無理を通した。

「頼家殿に、このまま仕えるならば、この場で死んでも構わない」
長年、頼朝に忠義を持って支えた盛長が、
これだけは承服することができないと一命を賭して頼家を戒めた。

「安達親子を、今すぐ首をはねよ」
カッとなった頼家が命じた。

「いい加減に目を覚ましなさい」

政子の厳しい叱責が飛んだ。
これは義時が政子しか頼家の暴走を止められないと動いた結果だ。

義時も盛長に対する厳罰は許されないと頼家をたしなめた。

この一件で頼家は御家人たちの信用をそこない始めた。

「結城 朝光には、気の毒だが死んでもらおう。その旨、訴状にして鎌倉殿にお示しをする」

梶原 景時は思い切った裁断をする必要に迫られた。

景時がこの騒動を契機として頼家に対して不満を持つ御家人を一掃するつもりだと、義時は受け止めた。
景時は鎌倉のあちこちに間者を潜ませて情報を収集している。

このままでは景時に不満を持つ御家人が増える一方だ。

義時は自分が前面に出て、景時と宿老同士で対立するのを避けたいと思った。

義村ならば、御家人たちの不満を景時に伝えることが出来ると考えた。

「御家人の人数を集めて訴状に名を連ねて鎌倉殿に処分を訴え出るのが良い」

義村の答えだった。

「あまり大事にするな。四、五人集めれば良い」
と義時は制した。

侍所では大勢の御家人が賛成して名を連ね、全部で六十七名に達したのだ。

義村の行き過ぎた行動に困った義時は
「大江殿の手元に置いておくように、私からも言っておこう」

大江 広元も、穏便に済ませたいとその通りにした。

そこへ熱血感の和田 義盛が、すぐに頼家に渡せと脅しをかけた。

頼家のもとに二通の訴状が届いた。

「一つは景時からの結城朝光の謀反を訴える訴状。そして一つは景時に対する訴状」

頼家は朝光には謀反の疑いはないと、訴状を破り、もう一通を手にした。

能員、時政がすかさず景時への断固たる処分をせまった。

「梶原殿は、鎌倉を守りたい一心で動いていたはず」

義時は私欲のないこれまでの尽力を強調した。

景時は反論を一切せずに、頼家との信頼関係に期待して裁定を待った。

「父は御家人をまとめるために、上総 広常を斬った。
お前をゆるせば、御家人たちが黙ってはいないだろう。
梶原 景時、役目を解き謹慎を申しつける」

頼家は採決を言い渡した。

「梶原 景時は、それほどの男であれば、そばに置いてみよう」

後鳥羽上皇は判断した。

景時が罷免されてひと月後の十一月。

義時は相模の領地で暮らす景時を訪れ元気づけようとした。

「過ちはただ一つ、おのれを過信し過ぎたことだ」

景時は横に置いてあった文を義時に手渡した。

「上皇さまからだ。京へ来いとの仰せ。鎌倉にいても先は見えた。
鎌倉殿も御家人も、どちらも操れると思ったが、どちらからも疎まれた」

「捨てる神があれば、拾う神もいるのだ」
続けていった。

「行ってはなりませぬ」
義時は語気を強めた。

同じ頃、義村は朝光と密談を重ねている。
「しばらくは姿を隠せ。例のことくれぐれも他言は無用で頼む」

景時を失脚させるために朝光を利用したのは義村だった。

数日後、景時は御所に呼ばれた。

頼家は景時が上皇から文をもらい、その誘いに乗るつもりだと手の内を読んでいた。

「忠臣は二君に仕えず」
「景時、この鎌倉に忠義を誓わぬものはいらぬ。奥州に流罪とする」
「上皇様からのお誘いを鎌倉殿に流したのは、義時、そなたであろう」
と景時。

「京へ行けば、朝廷との争いになる」
「鎌倉を守るのが私の役目」

義時は景時にはっきりと伝えた。

「刀は斬り手によって名刀になる。なまくらなままで終わりたくはない」

義時に返す景時の言葉だった。

景時は比企のご家人に抵抗せずに、奥州に向かうと告げて義時を見た。

「すぐに兵を整えよ。梶原殿は必ず西へ向かう。京へ。東海道で討ち取る」

義時は天を仰いだ。雪が降り始めていた。

(つづく)


【梶原景時館跡】

相模国一宮(現在の寒川町)にあります。

「梶原景時館址」の石碑が建てられています。

石碑の奥にある天満宮は、梶原氏の風雅をたたえ、里人により創建されました。

名称梶原景時館跡
所在地神奈川県高座郡寒川町一之宮8-6-6

【清見寺】

関所の跡地に残る清見寺。

天井には、この戦いによる血痕が残る古板が使われたと言われています。

名称清見寺(せいけんじ)
所在地静岡市清水区興津清見寺町418-1

【梶原山】

鎌倉時代の梶原一族ゆかりの山。

追討軍に追いつめられ、この山に追われた景時は自害しました。

名称梶原景時終焉之地
所在地静岡県静岡市葵区長尾1134

【建長寺】

景時のために梶原施餓鬼会が行われました。

景時の真っ直ぐな生き方は、今でも心に残されています。

名称建長寺
所在地神奈川県鎌倉市山ノ内8

また次回もお楽しみに!