出席者 石渡徳一前鎌倉市長
鎌倉農泊協議会代表 大川桂一 アドバイザー 間宮武美
■石渡徳一氏
神奈川県鎌倉市出身。鎌倉市立第一小学校、慶應義塾中等部、慶應義塾高等学校
慶応義塾大学経済学部卒業。
2001年 鎌倉市長選に出馬し初当選。
2005年 鎌倉市長選に出馬し2選される。
2009年 2期8年務めた鎌倉市長を任期満了に伴い退任。
■本日の対談場所の「萬屋本店」の歴史。
創業200年。萬屋本店は文化3年(1806年)に長谷に住む人々のために、味噌や醤油などの日用品を扱う商店が始まり。明治に入ると、名だたる文豪が執筆の場所を鎌倉に移し、様々な文化発言を行う町に変遷していく。そんな賑わいを見せる中、現当主の石渡前市長の曾祖父にあたる5代石渡惣左衛門が、当時日本で一番の銘酒と言われた「白雪」を鎌倉で取り扱うことに成功し、萬屋本店はその名を長谷から鎌倉、湘南、三浦へ広げたと言われている。その後、萬屋本店は時代の流れと共に幕を閉じ、令和のいま、新たに祝杯の場へと姿を変えた。石渡前市長の想いを受け継ぎ、後世に残る場所として約100年を迎える門構えは2尺の梁を有し、釘や金具を使わない伝統工法で建てられた。和式ウエディングとしてみなさまをお迎えする土間には。徳利、取り扱い商品の看板、重厚な金庫や神棚があり、当時の様子をそのまま残している。(萬屋本店のHPより引用)。
■対談のはじめに。
間宮 みなさま、こんにちは。鎌倉農泊協議会のアドバイザーの間宮武美です。さっそく対談企画「古き良き鎌倉と、いまの鎌倉」というテーマで、はじめさせていただきます。前市長ではなく、「石渡さん」という事で、お話を進めてよろしいでしょうか。
石渡 もちろん、かまわないですよ(笑)。
間宮 ありがとうございます。それでは「鎌倉からソウルへの徒歩の旅」や「姉妹都市への道のり」以来15年にわたる石渡さんとのおつきあいになりますが、私と大川さんとのおつきあいを簡単にお話しした上で大川さんにバトンタッチをしたいと思います。
鎌倉の魅力づくり、そのインフラづくり、そして、その活性化を目指して農水省の助成を受けて活動している「鎌倉農泊協議会」の説明は既にお話ししました。大川さんのプロフィールも既に説明はしましたので省きます。
ある時、FB『頑張ろう 鎌倉』で「鎌倉農泊協議会にご興味ある方は声を掛けてください」というのを偶然に見て、お声がけして鎌倉で大川さんとお会いし、その活動の志を聞きました。それで意気投合して、この活動に参加したのです。
特に鎌倉への観光客が年に2000万人なのですが、街にお金を落としていく金額が平均3500円と言われています。鎌倉に落とすお金を、より増やすようなインフラがあればいいなと、ぼんやり考えていました。大川さんからリニューアルした古民家宿に泊まり、周りのお店で食事して、農園体験などで、街が元気になり第1次産業の方々の懐が潤うようなインフラづくりをしていると聞き、一緒にやりたいなと思いました。アドバイザーという立場で参加して、まだ1ヶ月なのですが……。さて、これからは大川さんからお願いします。
■長谷という街。
大川 石渡さん。江ノ電がこういう風に海の街をのんびり走っているのは、山を切り開いて鉄道をつくるのはダメだっていうので、おかげでこのように発達したって聞きましたが。
石渡 発達したっていうか江ノ電は、そもそも遊覧電車だったんです。昔は海を見るための電車だった。ちなみに、ある時期には江ノ電沿線が日本全国で一番所得が高い地域と言われていたようです。
大川 昔、鵠沼地区の方々が、江ノ電の開通に意外にも好意的なところがあって、鎌倉から藤沢まで10kmが開通したと聞いたことがあります。
石渡 江ノ電がある風景は絵になりますね。長谷もそうです。
昔の長谷は明治のころから文豪たちが執筆の場所として居を移してきた。温暖な気候で住みやすかったし、静寂な街で緑に囲まれて、近くには海がある。後に川端康成さんが長谷に住まわれていました。この店の向かいの路地を入ると川端さんの家があります。
いろいろと文豪たちが文化発信したので、それで鎌倉は一時期、いわゆる別荘文化になり、いまの鎌倉もその空気や影響を大いに受けています。
大川 そうなんですか。
石渡 近くの魚屋さんでは、店に魚が並んでいるわけではなく、「みんな刺身にして届けて」と注文があり、それを魚屋さんが別荘に届ける。そんな風景が普通だったと父から聞いたことがあります。特に近所の花屋さんは日本で一番になったこともあるとも聞いていました。だから、長谷は、そういう良き時代があったんですね。由比ガ浜通りの柴崎さんという牛乳店。僕たちが脱脂粉乳時代に、柴崎牛乳店には、牛乳の5合瓶がたくさん並んでいました。芥川龍之介も、ここで買って飲んでいたそうです。私が、すべて見た訳ではないのですが(笑)。
大川 さすがに、私は、すでに脱脂粉乳世代ではないですが(笑)。
石渡 それで戦後は、うちもフジミネラルって780ml瓶(4合強)を置いたのです。なんとミネラルウォーターが結構売れたんです。ミネラルでご飯炊いたりした。外国人の方も住んでいた居たという別荘文化のおかげですね。
大川 そうなんですね。なんかその感覚が想像できないです。
石渡 鎌倉の気候は温暖で住むに好し、夏はみんな遠くから海水浴にやって来たんですよ。この町の普通の家でも2階を海水浴客に貸して、海水着に替えて、荷物預けてみんなそのまま海に出ていったんです。私なんかも海水パンツひとつで、毎日海に行ったもんです。
戦前で、どれほど前か分かりませんが、夏になると、銀座の呉服店なんかが、ここに出店してきて賑わいました。いわゆる軽井沢はご存知でしょ? あれと同じような感じだという話だったようです。
その次には、次第に会社の保養所ができる時代になってきた。時代の変遷的に言うとね。それでバブルがはじけて、保養所は会社の経費の問題で徐々になくなっていった。もともと別荘文化があって、海水浴があって、それで、会社の寮があって、それがなくなった。そういう土地柄ですよ。
ところで大川さん、“古都保存法”って知っていますか。
大川 古都保存法ですか。
石渡 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法で、歴史的風土地区を指定して、地区内の開発から守るんです。奈良、京都、鎌倉など限られた地区が選ばれて、それから鎌倉も大きく変わっていくんです。後にまた触れますが。
■鎌倉農泊協議会とは。
石渡 大川さんのお仕事は、古民家をリニューアルしたり、賃貸したりしてる。そういう宿泊の仕事をしてるわけですね?
大川 そうですね、今は、農水省の助成を受けて、鎌倉で6つ古民家を宿泊所としてリノベーションして泊まって戴き、街で食事して戴くと鎌倉の第一次生産者が潤うという事業をしています。そこから先のことも、考え始めています。いろいろと…。
既に鎌倉の宿泊施設に来ていただいてる方が結構多いんですけど、最近は2拠点居住とか、2拠点で東京都と鎌倉と別荘形式の話とかが多いですね。あと最近はワーケーションといってリゾートと働く場所を両立するという話になって来ているのです。
おそらく、菅新政権になって、そういうことに力を入れると言われているので、東京からほど近い鎌倉は、そういうニーズがたくさんあるだろうなぁって。そこにビジネスチャンスを見出しているのです。
それから間宮さんからご連絡をいただいたときに、なんか、すごいパワフルな方で、当社の鎌倉の責任者をしてもらっている富永忠男さんもそうなんですけど、高齢者っていうくくりで一緒に仕事したいのに、本当にお元気で、パワフルで、自分はこれやりたい、あれやりたいって提案してくれるんですよ!
間宮 それで石渡さんにも、今回の対談企画というご迷惑をかけた訳です(笑)。
大川 ある意味、話した通りに行動力が伴う人って、あんまり若い人でいないので、すごい、いいなって思って。それで経歴を聞いたら、石渡市長時代に「鎌倉からソウルまで歩いた」とか、「韓国の姉妹都市を提案したとか」。すごい面白い話をしてくださったんです。じゃあ、ちょっとこの面白い人と何かやりたいと思ったら、いきなり松尾市長と対談の場をつくるとか、「石渡前市長ともお話しできるよ」っていただいて、今日にいたってます(笑)。
間宮 もともとね、何か行動することが好き…。ジッとできないタイプというか…。前から「アジ、さば、回遊魚」って「止まれば死んでしまう」と自分で言っていたんですよ(笑)。石渡さんは市長を終えられて、やっぱり、きちんと「**会社」などで、お仕事はしにくいので、“鎌倉能舞台”の理事長など名誉職をされて…。
石渡 今はもう、役はみんな断って、降りていますよ。
間宮 それからね、ひところは「鎌倉ビール」の顧問としていろいろ市場を広げて…。
それからここの「萬屋本店」ね、本来貸主っていうか、こういう思い切ったリニューアルは、ぼくらには想像もつかない改造をされて、和式ウエディングというスぺース…。伝統的な建物で全く新しいことをはじめられたんですね。
では、いくつか基本的に大川さんが抱えている鎌倉での活動で、何かお知恵をお借りしたい質問をいくつか、事前に書いてお渡してあるので、大川さんにバトンタッチしましょう。
■萬屋本店とは。
大川 最初に、この萬屋本店の写真見たんですよ。ものすごいきれいな写真がいっぱいあって、いま、情報発信の時代じゃないですか。ツィッターしかり、インスタグラムしかり、2万を超えて、ものすごい数で見られていたのですね。萬屋本店の写真は綺麗ですね、やっぱり美的センスとか。石渡さんは物件のオーナーとして、すべて任していらっしゃると思うんですけど、なぜ、こういう事業を、つまり結婚式場として、再生されようと思ったんですか?
石渡 いや、そうではなくて、酒屋の店やめてから萬屋本店の会社は、まだ、ここにあったんですよ。店を閉めて、その後、母親が亡くなってね。それで、これから店をどうしようかなと思って。ここは商店街だし、シャッターを閉めたままもまずいと思って、不動産屋に貸そうかなと思っていたら、毎日のように次々に話がきまして、正直言っていろんな人が…。庭の奥にある代々の蔵ですが、その蔵だけ貸してくれないかとか、そうすると庭先を、誰かが通って、自分たちの住まいの前を通って……、困りますよね。
大川 そうですね。
石渡 次々に話が来て、そのうち(株)Daiyuの宮越(真里)社長さんがいらして…、「全部お貸しいただきたいんですけど」って。実はこちらとしても、お店だけ貸しても私たちはこの裏に住んでるから心配じゃないですか。それが宮越社長は全部貸してくれっていうから、「いいですよ。全部貸しましょう」って決めようとしました。ただ、やっぱり、長谷に石渡家として代々200年以上住んできて、簡単に離れるのは……。ちょっと考えさせてって。だけど、妻も家族もいいんじゃないって言うし、宮越さんに全部お貸ししましょうって。「何やるんですか」って聞いたら、“結婚式場”。え?‼ここでやるんですか?!って。これ全部ウエディングをプロデュースする会社の宮越社長の発想ですから。それで私はね、店舗の名前も変える気だったわけで、看板も外しましょうというと、いや、いいんです、このままやるんですって。宮越社長のノウハウを持ってきて、店の培ってきた伝統とかに融合させる…。だから、私の元社員や従業員もね、やっぱり萬屋って名前が残って喜んでますよ。
大川 そうだと思います。すばらしい話ですね。ぼくも、鎌倉にきて私は(他所もん)じゃないですか、なので鎌倉の古民家バケーションハウスの支配人の富永忠男さんに鎌倉の事は全部任せて…。経営の重要な判断は僕がするんですけど、さっき言ったように鎌倉は地位(じぐらい)の高い土地なんで他所もんが、いきなり鎌倉に来てビジネスするって…。その宮越さんという方が、他所ものかどうかはわからないですけど、萬屋さんの看板を大事にするって、その気持ちがなければ、地元のコミュニティへのリスペクトが必要ですよね。それがなければビジネスが成立しないと思います。
石渡 いまは、(株)Daiyuの顧問になっていますよ。だから、半分関係して、お互い借り主様とは良好に関係を保ってるわけです。
大川 逆に言うと結婚式場の萬屋本店のお仕事も石渡さんの人脈を、大いに紹介していただけるということですもんね。すばらしい関係ですね。
間宮 正確には何年くらい経つんですか、この新しいスタイルになって…。
石渡 契約してから、丸5年たっていますよ。
間宮 そうですよね、江ノ電の駅とか、色んなところで広告が出ていますね。
大川 それは、すばらしいことですね。
石渡 まぁ、人前式とか…。だいたい鶴岡八幡宮で式を挙げて、それでマイクロバスで長谷に移って来て披露宴をやるんです。
大川 お店の方にお聞きすると60名から80名までの規模で宴会がやれるんですね。
石渡 ご覧の通り、かなり大改装したんです。大川さんはご専門だから、わかると思います。建て替えちゃった方が良いくらい大改装しました(笑)。
間宮 萬屋本店のホームページを見ると宮越さんと対談されていますよね。遺産と遺跡の違いとか。鎌倉は生活の場で、ここは遺産なんですと。ピラミッドは遺跡で、現代ではつくる人がいない。鎌倉には宮大工などがいて再建できる。後世に残るものとして、このままだと、この店は壊せないなと思った。
石渡 宮越社長はアメリカいったりして、花屋さんと仲良くなったりして…。いずれは、ブライダルやろうって…。それでいろいろと物件を探していたんですって。鎌倉らしいところを探していた。それで、トントン拍子に話が決まって。だから、私なんかの発想じゃないんですね。やっぱりすべて宮越社長の発想なんですね。
大川 宮越さんはここの地元の方、鎌倉ご出身の方じゃないんですか?
石渡 地元の人じゃない。
間宮 だから大川さんとおんなじですよ。「なぜ、鎌倉か」ってお話しを伺いたいですね。
大川 僕と同じですね(笑)ぜひ、聞いてみたいです。
石渡 結局、外から見ていて、こういうのが魅力だとかわかるんであって、地元に住んでると、何が良くてなにがよくないかわからない(笑)
大川 地元のイエス・ノーを、いろいろ抱えちゃっていますしね。
石渡 まぁ、だから全部使ってやってくれると言われるので、非常に私も良かったんです。
間宮 僕も大川さんに、外モノがっていうんじゃなくて、僕の言葉でいうと、石渡さんが先ほど言われた町内だけの発想、つまり同心円よりは、外の力を受け止めて異心円にした方が、より活性化するんじゃないかと思っているんです。
石渡 だから私もチラッとね、民泊でもやろうかなと考えたことがある。ただね、私も市長やってたから、ほかの人を泊めると、ものすごい軋轢があって、近所に迷惑をかかるってことが、まっさきに頭に浮かんだんで、なかなか、それ以上自分の力では考え付かなった。
間宮 石渡さんに取材をお願いできないかと説明したら「間宮さん、そういうことやってる人、この周りにたくさんいるよ。そんな中で、なにやりたいの?」って言われたので、いやだからね、“かくかくしかじか”って説明したんだけど…。
■鎌倉ブランドで鎌倉の価値をつくる。
大川 鎌倉の土地が高いのにはビックリしました、鎌倉で土地を買ったら。東京より、下手したら高いんじゃないかってくらい。だって…、値段の付け方が海に近かったら高いとか、そういう付け方じゃないですか。
石渡 私が市長の時はね、津波は5mが通説だった。海の沿線に134号線があるでしょ? あれは戦後、国体やるんで作った道路で、高さがだいたい5mなんですよ。だから一応津波は街には入ってこないっていう理論づけになっていたんですよ。それが、あの東日本大地震が起こって、津波の高さは14mだっていわれて。
大川 ですよね、ぼくも調べたんですよ。材木座海岸物件(現古民家再生宿泊宿)「琥珀」を買うときに。関東大震災の時に津波が来て。琥珀は材木座海岸のおそらく海抜2mか3mくらいしかないんで、当時被害にあってるみたいなことが書かれていたんですね。それでもみんな鎌倉が好きですよね。東日本大震災の後は津波の影響で、鎌倉の海辺のマンションから人が居なくなっても、ちょっと時間が経つと、また鎌倉へ人が集まってきますよね。
間宮 みんなが、鎌倉が好きってところからね。鎌倉市でいろんなクラウドファンディングをやっていて、花火なんかも中止になりそうな時にクラウドで見事な花火大会が出来た。ファンドした人が、「私、鎌倉が好きなんです。何か役にたちたい」って。石渡さんが関係した、あの鎌倉能舞台もクラウドファンディングで文化支援を行っていましたね。
石渡 私が市長の時に何をやったか。鎌倉のブランド価値を上げることでした。あとは人口を減らさないこと。当時の公約では「子供の元気な声が聞こえる街を作る」、これが公約だったんです。当時、鎌倉はだいたい毎年1200~1300人の赤ちゃんが生まれて、1800人くらい鎌倉から人が減るのですよ。だから、自然に人は600人位が減っていく。少なくとも1000人が移住してもらわないと、鎌倉の人口がどんどん減るんです。だから転入、転出、その自然の増減よりも、入ってくる人を意図的に増やさない限り人口が減っちゃう。私は若い世代、子供さん連れの若い世帯を増やそうとした。だから子供の医療費無料を真っ先に集中的にやりましたよ。
大川 医療費無料ですか?
石渡:そう医療費無料。若い世代の方は、そういうの全部見て引っ越してくるでしょ。だからそういうのどんどんやってたんですよ。旧市内唯一の分娩施設、ティアラ産婦人科。当時、産婦人科が鎌倉からなくなっちゃったんですよ、だから医師会と協力してできた。
大川 でもなんか、書いちゃダメって言うけど、こういうことこそ、市民は興味あると思いますよ。
石渡 だってもう終わったことだから……。
とにかく鎌倉ブランドを下げない。広町緑地ってGoogleで見てください。三浦半島のつけねが鎌倉ですよ。そこに冒頭に話したのですが「古都保存法」では守れない地域に広町と台峯っていう二つの大きな森の残っている場所があったんですよ。ここは開発から守れない地域だったのですが、ここの緑を残そうという市民たちの声をバックに、いまのように森が残ったのです。私たちが恩恵を享受して後世に残すものを、宅地開発の波から保存しようという話になったんですね。
間宮 石渡さんが市長1期目のお仕事でしたね。広町緑地公園は1周すると1時間かかるの。私の子供はターザンごっこをしていました。子供たちは思い切って遊ぶし、夏は蛍が飛ぶし。いまでは市民の家族揃っての憩いの場ですね。
大川 面白いですね、鎌倉は排他的でもあるんですけど、市長がおっしゃるように、市民たちが先進的でもあるじゃないですか。市長は人口を増やして、鎌倉ブランドを守るようにこだわっていらっしゃる。すごいですね。それが、今では鎌倉ブランドになりましたね。
石渡 鎌倉に対しての、そのブランドへのこだわりは、私みたいに昔からいる人間よりも、あとから来た人の方が強いですよ。その人にとっての人生の中でもおそらく一番いい時に買わなきゃ買えないでしょ?そういう人が買うわけだから。それでも、定年退職して、過去を持ち込んでいる人がいるとすると、自治会活動などでは、肩書と、職歴とか全部捨てなきゃ、おそらく街にうまく溶け込めませんね。
大川 やっぱり、知識層っていうか教育熱心な人が多いんでしょうね。
■騒音問題とゴミ問題など。
石渡 ところで、大川さんは、鎌倉で民宿とか、ものすごいやりにくいところだと思います?
大川 別にやりにくい所はないですけど。皆様、優しくしてくれて…。鈍感だから気が付かないのかな?(笑)。騒音対策やゴミ処理とか、やることきちんとやってるつもりです。
石渡 まずゴミ。ゴミも、ちょっと出し方悪いといわれちゃう。ここは民度が高いっていうか。あと騒音ですね。
間宮 最近は、いろんなところで除夜の鐘が問題になるでしょ?夜中にうるさいって。
大川 そうですね。
石渡 だから周りの町内会長さんとかに、いつでも話し合いができる関係にしておいた方が良いですよ。
大川 そうですね。ありがとうございます。
石渡 とにかく、反対運動始まってしまったら、もう、何もできないから。この対談記事的にはね、周りの住民の方とよく考えて、周りの環境には十分配慮してやるように、私から言われたと書いておいて(笑)。
大川 肝に銘じました。今、6つのね、宿泊施設があるんです。
石渡:どこにあるんです?
大川 材木座と腰越に3軒と、片瀬海岸と、西鎌倉です。
石渡 基本的にね、古い民家だとみんなそこの町の人たちは、誰々さんの家だって知っていて、文句言いたくても、まだその人が関係していると思うから、おそらく、文句が出ない。それが、持ち主が変わって違う人が経営に関係していると知ったら、すぐにクレームきますよ。だから、できれば古い民家を所有している人と関係を保っておくとか、そういうのは一つのノウハウかもしれないですね。
大川 そうですね、腰越と西鎌倉の物件は借りて営業しています。材木座だけ、当社で所有してるんですよ。あとはオーナーさんと業務委託です。おかげさまで近隣の住民の方ともうまくやれているので、石渡さんに言われたところを肝に銘じて、住環境を大切にやっていきます。
間宮 それが命ですからね。
大川 そうですね。
間宮 僕が町内会の班長をしていた時に、班の中の32軒と一緒にゴミステーションをつくたんです。生ゴミの日にカラスが集まって来たので、ゴミが気になって。そうしたら上手く行きました。カラスが全く来なくなった。
石渡 そうでしょ?ゴミ出しだけはきっちりやらないと。
大川 それは富永さんがスタッフとしっかり、鎌倉のルールにあわせてちゃんと処理してくれます。しっかりやれているんで大丈夫だと思います。
■オーバーツーリズムのもたらすものは。
間宮 あと僕が大川さんから聞いてびっくりしたのは、1年間にお客さんが、あれだけインバウンド時代でも、東京からくるお客さんが7割を占めていると聞きました。もともと、7割が東京から来ているのです。コロナ禍でもインバンドのお客がいなくなっても、あまりへこたれないのかな。
大川 それだけ東京から人が来るってことは、石渡さんが言っていた鎌倉ブランド(ブランディング)は成功してるってことですもんね。
石渡 電車で東京からくると、空気が違うから。
間宮 東京の友だちから「潮の香りする」といわれます。自分は慣れてしまって、いまはあまり感じないけれども。
石渡 私も中学から三田の中等部に通ってたから…。みんな電車は通勤、通学ですからね。それでいつも思うんだけどね、当時から千葉とか、埼玉、あちらの方はどんどん地下鉄が出来て、都心が近くなっているじゃない。鎌倉は通う時間が昔と変わらない。横須賀線の時間が、鎌倉から東京まで50分…。1時間以内で、ほとんど昔から変わらない。
大川 そうですね…。
間宮 いまは定期券があれば、グリーン車はグリーン券だけで乗れるので、朝の湘南電車は若い人が遠い順に乗り込んで、大船あたりでは満席という事もありますね。湘南新宿ラインができて、鎌倉に来るお客さんの層がガラッと変わっちゃった。若い人が増えたと言われるけれど。
石渡 そう、変わっちゃった。
大川 はぁーそうなんですか、やっぱり。
間宮 ちょっとね、礼儀的に、おかまいなしの人が、どっと入って来たっていうかね。お店の人の意見を聞くと、「観光客がたくさん来るのはいいんだけど、観光客の質が変わっちゃって」と言う声が。よく聞こえます。
大川 オーバーツ―リズ。鎌倉へ来すぎちゃうっていう問題は、やっぱり地元の住民からみれば、あまり歓迎はしないですよね。交通渋滞は大きな問題ですよね。
間宮 シーズン中の週末やGWの江ノ電がいっぱいで、鎌倉駅の入場制限があるでしょ?もうね「元気な人は、長谷まで20分で歩けますよ!」って大声で教えてやってよ。12分おきの電車が乗れないと、早くても24分待って、さらに36分待ってでしょ?元気な人なら20分で長谷まで来ちゃう。
石渡 鎌倉駅からこの店まで17分ですよ。
大川 あ、そんなもんなんだ。
間宮 よく若い人を鎌倉歩きで連れて歩くときなんか、「電車は? ダメ!20分で長谷寺」って言って歩くんですよ。
大川 そういうのこそ、発信した方がいいって気がする。
石渡 公共機関で鎌倉へ来てもらいたいっていうのは絶対ですね。この店だってね、結婚式やる式場、駐車場のない式場なんて、他にはないでしょ?もちろん借りてますよ、でも駐車場を持ってないわけ。そんなスペースないし、でも文句言う人は一人もいない。
大川 でもなんか歩くのもいいですよね。琥珀は鎌倉駅から材木座まで20分くらいです。
石渡 ここも、道知らない人でも20分で着きます。
大川 それでも楽しいですよね。鶴岡八幡宮の商店街抜けて海岸出るまで行って、風を感じながら材木座まで歩いたら…。そういう楽しみ方したほうがいいですね。
■ケネディの本を読んで、市長になろうと思った。
大川 でも、聞いた話ですが、石渡さんは市役所へはバスにしたんですね。私にとっては意外なんですけど…。ちゃんと選ばれた人なんだから、市長車で通えばいいのに。なんか、そこは謙虚なんですね。
石渡 謙虚ではなくて、バスに乗ると、いろんな人に会えるし、いろんな意見が聞けるし。
大川 そうか、そうですね。
石渡 バスで通っていた方が、人と色々会う機会があるでしょ。だってね、市長時代は新年会が100あるんですよ。1日3つ。ふつうね。多い時は6つ。とてもじゃないけど、体がもたない(笑)。
大川 でも、代々続いた老舗があって、土地持ちで、よくそんなしんどい市長の仕事をやりましたよね。
石渡 小学校4年の時にもう、市長になろうって決めていた(笑)。
大川 おっしゃっていましたね!市長になるって決めていたって間宮さんから聞きました。
石渡 昔、ケネディの大統領就任演説の本を読んで、「あなたの国があなたのために何ができるかではなく。あなたが国のために何ができるかが大事だ」という演説を知って、店の発ためには市を発展させなければならない、それは自分がやることだと思いました。とにかく、市長になろうって決めていた。
大川 でもすごいですよね、普通しないですよ。代々続いた老舗があり、土地持ちが…。
間宮 僕なんか、そのころだと刑事か新聞記者になりたいと思ってた。テレビドラマを見ていた影響で。
石渡 鎌倉を発展させようと思ってたから。鎌倉を、立派な街にしたいと思っていたから。
大川 これはちゃんと記事にしないと!
石渡 それはひいては、この店(萬屋本店)を考えての事だった。そしたら皮肉なことにこの店は閉めなきゃいけなくなった。だから、先祖から受け継いだこの店を大きくするにはどうしたらいいかっていったら、やっぱり鎌倉の発展をやるしかないと思ったから。鎌倉を大きくしたい、立派な街にしたいという一心で人に頼らないで、自分で…。
間宮 市長在任中にこの店を閉めたんですね。
石渡 そう、それが原点です。私の大親友は、私が市長になるって思っていた。口には出さないけど。老舗のボンボンだから、鎌倉で役をやろうと思えば何でもできますよ。だけど市長はそういうわけにはいかないだろうと思った。それで、親の七光りの利かないことって何だろうと考えて、まず大学の体育会、弓術部に入ったのですが、自分を磨いてキャプテンになれなかったら、やっぱりダメだと思った。人の上に立つんだったら、体育会のキャプテンにならなきゃダメだなって思って、結果キャプテンになった。その頃が一番つらかった時かもしれない。その時を思うと、人生の中で一番苦しかった時は体育会だった。私には青春がないですよ。
今はね、体育会も文武両道を打ち出してるけど、体育会のキャプテンのプレッシャーはキツイですよ。慶応のブランドを背負って、そもそも弓道は福澤諭吉先生が始めましたから。そのキャプテンになるって、ものすごいプレッシャーでした。
あのプレッシャーからすれば…何でもできますよ。
大川 大変な思いを経験して市長になられたのですね。良いお話を伺いました。
今日は鎌倉生まれ、鎌倉育ちの石渡大先輩から、昔の長谷のこと、いまの鎌倉の課題、そして周囲とのおつきあいの神経の使い方、また、上に立つ人間の志と、たくさんのことを学ばせていただきました。ほんとうにありがとうございました。
【編集後記】
この対談企画の後は、萬屋本店のレストランで、おいしいメニューのランチを戴きました。
和やかな対談は、その後も続きました。
店の前の細い道を入ると川端康成の別邸がある。その先の「甘縄神社」の奥の山は、代々石渡家の山。いまは荒れ放題ですが春には藤の花がきれいに咲く。藤の花の綺麗な山は、荒れているという事を人は知らないと。私も初めて知りました。
読書の話になって村上春樹の本について、石渡さんからも楽しいお話が聞けました。
いきなり、大川さんに向かって、
石渡 「大川さんの趣味はなんですか」
大川 「(瞬時に)仕事!」
大川さんは石渡さんに向かって、2度の質問に、瞬時に「仕事!」と答えていたことが印象的でした。
今日の、石渡さんとの対談企画は、想定していた以上に、和やかな雰囲気の中、あたかも、
地元の大先輩が、若い経営者にやさしく諭しているような内容の対談でした。
ランチの前にウエディング会場になった萬屋本店の本来の昔の姿を丁寧に案内してくれました。「この部屋は、私の子供部屋だった」と小さめの部屋をのぞかせてくれました。
私は、石渡少年が、この部屋で、はるか先の未来の市長の姿を夢見ていたのだなと、一瞬タイムスリップしたような気がしました。
みなさまも、一度「萬屋本店」のHPをご覧ください。大正14年より続く2尺幅の梁を有する門構え、客人をもてなしてきた床の間、長らく商売を支えてきた大きな金庫に神棚。
歴代の大きなダルマや、徳利、はかり。そこから見える“おもてなし”の心が見えてきます。(文責:間宮武美)
石渡徳一さま。
本日の対談企画にご協力戴きまして、感謝いたします。(事務局一同)