鎌倉農泊協議会の間宮です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第10話。タイトルは、「根拠なき自信」。
一体、誰の自信なのか。
前回、頼朝は富士川で平家軍を撃退しました。
次なる策は「急がば回れ」。
上洛を目前に頼朝は鎌倉で新政権の強化に乗り出すが・・・
弟の九郎 義経(くろう よしつね)が奥州から駆けつけた。
行動的に奥州の藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)に援軍を求める文を送っていた。
「それは、心強い」
と頼朝。
秀衡の手には義経の文と清盛から頼朝追討の兵を求める文が握られていた。
秀衡はどちらにも
「承知した」
と返事をすると言い、いつまでとは言わずに二通の文を囲炉裏にくべた。
後白川法皇(ごしらかわほうおう)は、ある怪しい坊主を呼んだ。
「文覚、まじないで人を呪い殺すことができるか」
「さて、誰に死んでもらいましょうか」
文覚(もんがく)は目を細め、後白河法皇はニヤリとした。
その相手は平 清盛(たいら の きよもり)に違いない。
政子は御台所と呼ばれるようになり、人と目通りする機会が多くなる。
雅な作法を身につける必要がある。
「兄の牧宗親です。私だけでは心もとないので、京からお呼びしました」
時政の妻・りくは、政子と宗親(むねちか)を引き合わせた。
頼朝の部屋に源 範頼(みなもと の のりより)、阿野 全成(あの ぜんじょう)、義経が集まった。
「世を正すために、ともに力を尽くしてくれるな」
頼朝は坂東武者とは一線を画す、血を分けた弟たちだ。
「佐殿がお酒をご所望です」
頼朝の妾である亀の指示で、八重は頼朝の部屋まで酒肴の盆を運んだ。
「中へ、運んで」
と亀。
すると八重の目には、頼朝と亀が寄り添う姿が飛び込んだ。
次の日から八重は体調不良で出仕を休んだ。
頼朝は常陸の佐竹 義政(さたけ よしまさ)の征伐に出陣した。
「戦わずして済むなら、これに勝るものはない」
戦いを回避するために、上総 広常(かずさ ひろつね)が佐竹の陣に交渉に赴いた。
「お前も、老けたなぁ」
義政の挑発に広常は、いきなり義政を切り捨てた。
「こいつが、余計なことを言うもんだから」
「私に三百の兵をください。三日で勝ってきます」
「お前は戦いの経験はあるのか」
「ありません」
「戦いは一人やるものではない」
根拠のない自信。義経は広常にどやされた。
一方、戦歴のある坂東武者を持っても攻めあぐねていた。
「九郎ならばどうされますか」
義経は誰もが思いつかない見事な策を披露し、皆を驚かせた。
「我が軍の大勝利でござる」
時政が
「広常が敵方と内通して砦の守りを解かせた」
と朗報を伝えた。
義時は三浦館に八重を見舞ったときに、庭の茂みに隠れる頼朝を見つけた。
「お前が八重に惚れているなら、わしは諦めよう」
「よしわかった。義時、お前はあれと一緒になれ」
「わしが取り結んでやる」
そこに若い僧が現れた。
「源義朝が八男・乙若でございます。今は義円と名乗っております」
(つづく)
さて、今回のゆかりの地は「佐竹寺」です。
鎌倉から常陸太田までは180km。
歩き続けて38時間。一昼夜プラス半日の距離です。
それくらいの目処と考えました。
いつものように「青春18きっぷ」で行くことにしました。
7:42 大船発 JR上野東京ライン(高崎行き)
8:34 上野着
8:46 上野発 JR常磐線(勝田行き)
10:58 水戸着
11:15 水戸発 JR水戸線(常陸太子行き)
11:32 上菅谷着
11:35 上菅谷発 JR水郷線
11:50 常陸太田着
合計の移動時間は4時間8分。料金は3,410円(往復で6,820円)になります。
常陸太田の教育委員会が、駅前にはレンタサイクルがあると教えてくれました。
少ない時間で結構な行動範囲になります。
主旨を話したらたくさんの地図や参考資料を自宅へ送ってくれました。
丁寧なお手紙もついていました。有難いです。
三連休に実行する予定を立てました。
ところが、あの地震。
もしも余震で電車が不通になったら、それこそ歩いて帰宅しないといけません。
今回は残念ですが、現地の見学は控え、豊富な資料に頼ってレポートを書くことにしました。
ご紹介する場所は「佐竹寺」、「馬坂城跡」(佐竹氏の祖・昌義の居城)、「太田城(舞鶴城)跡」(佐竹氏の居城)、
「西金砂山」、「西金砂神社」、「万畑のカシ」(頼朝が万の旗を掲げたところ)です。
【佐竹寺(さたけじ)】
佐竹寺は室町時代に元密上人によって鶴ヶ池北方に建てられ観音寺と呼ばれました。
鎌倉時代には佐竹氏の祈願寺として信仰されましたが、室町時代に兵火により焼失。
天文15年に山の中から現在地に移転し、再建されて佐竹寺となりました。
寺社 | 佐竹寺 |
所在地 | 茨城県常陸太田市天神林町2404 |
【太田城(舞鶴城)跡】
舞鶴城は太田城の通称で、佐竹氏約470年間の居城。
佐竹氏三代隆義(たかよし)が入城する日に、鶴が城の上空を舞いながら飛んでいたことから
「舞鶴城」と呼ばれるようになりました。
名称 | 太田城(舞鶴城)跡 |
所在地 | 茨城県常陸太田市中城町151 |
【馬坂城跡】
馬坂城は平安時代末期に源 昌義(みなもと の まさよし)が館を構えて佐竹氏を称し、居城とした城です。
その後、鎌倉時代に稲木城が成立しましたが滅亡しました。
名称 | 馬坂城跡 |
所在地 | 茨城県常陸太田市天神林町 |
【西金砂山】
西金砂山は常陸太田駅より北へ約15kmのところにあります。
【西金砂神社】
西金砂山の頂上にある神社です。
寺社 | 西金砂神社 |
所在地 | 茨城県常陸太田市上宮河内町1915 |
【万畑のカシ】
西金砂山へ上がると頼朝が多くの旗をあげた場所があります。
その話が地名になったと聞きました。
いつか機会があれば、尋ねてみたいです。
「青春18きっぷ」はまだ二回使えます。